同性婚のできる国で感じたこと
同性婚のできる国で感じたこと、それは「羨ましい」だった
先日こんな記事を書いた。同性婚については、積極的には肯定できない面もあるけど、実利があるからきっと制度ができたら利用すると。
でも、同性婚の可能な国に旅行して、現地に住んでいる人の話を聞いたとき、浮かんだ感情は「羨ましい」だった。
同性パートナーシップ制度を初めて作った国、デンマーク
「羨ましい」の理由
羨ましいと思った理由は、なんだっただろう。
市庁舎の中の素敵な装飾を眺めながら、私の頭に浮かんだのは、同性同士のカップルが少しおめかしして、腕を組んで微笑みあってそこを歩いている姿だった。
いいなぁ、と思った。それは多分、普通にお互いがお互いのことを愛していることを誰にも隠さなくてよくて、周りにも普通に受け入れられることに対してだったと思う。
公の場でイチャイチャしたいわけではない。みんなに祝ってほしいっていうわけでもない。
ただ、隠さなくていいっていうことが、どんなに楽で安心なことかと思った。
日本では、同性愛者は沈黙や諦めを強いられている
翻って、日本では、私たちは、大切に思うパートナーがいても、そのことを黙っていることが多い。嘘をつくこともある。そして不満や不安があっても、諦めている。
例えば、市役所に提出する書類には大抵家族のことを書く欄がある。そこに、嘘ではないけど本当でもない情報を書く。私はいつまでも、戸籍上は未婚で、家族は親と兄弟しかいないことになっている。大きな支障があるわけじゃない。でも、どことなくさびしい気持ちになる。
部屋を借りるときは友人同士のふりをする。だからちょっと古いタイプの大家さんや不動産屋さんは、ちょっと貸すことに戸惑いを見せる。そして二人ともに対して保証人が必要と伝えてくる。私たちは、ちゃんと家を貸してもらえるように、内心では戦々恐々としながら、外側ではできるだけ愛想よく、信頼してもらえるように振舞う。
ホテルでは、ツインではなくダブルのお部屋を予約していたのに、好意からホテルマンはツインのお部屋に変えてくれようとする。でも、私たちは「ダブルがいいんです」と言い出せない。
同性婚の認められている国では、こんな思いをしなくていいのだ。
もしかしたら、感じたことのない人にはこういうことは、ささいな問題と思えるかもしれない。
でも、こういう無数にある、日常の瞬間で、私たちの関係をないもののように扱われるのはつらい。ちいさなダメージが心に積もって、「この人と付き合い続けることが、私にとっても相手にとっても、本当にいいことなのか?」って何度も思い悩むことになる。
特別なことを要求しているわけじゃない。ただ、私たちをちゃんと「見て」ほしい。
今の日本には、「LGBTなんてレアケース。私たちの近くにはいない。いたらその場で個別対応したらいいでしょ」って思ってる人がたくさんいる。決して悪い人ばかりじゃないと私は信じてる。
でも、私なら少し知り合っただけの、そういう人にはカミングアウトできない。「レアケース」って思ってる人には、知識がないし対応した経験も多分ない。無意識の偏見が、心のうちにある場合もある。(私の中にだってかつてあったように。)
無知のために、傷つくような言葉をかけられる可能性は十分にあるし、不当に扱われることもあるかもしれない。
そのとき、戦う元気や力がないこともある。
だから、私は同性婚や同性パートナーシップ制度が日本でも可能になったらいいと思う。私たちが日常や人生の中で受ける不便や不安やつらさのために、自分自身を否定してしまわないためには、私たちがまず、「見える」存在になることが必要だと思うから。
「いるんだなー」ってわかっている状態だったら、「私たちカップルなんです」って言うときにきっと今より振り絞る勇気の量が少なくて済むし、諦めることも減ると思うんだ。