日記的なブログを書きたくなるきもち
日記の魅力的なブログっていいなぁ、と思います。わたしの好きないくつかのブログはみんなそうかも。描かれたちょっとした日々のあれやこれやを通じて、その人の葛藤や思いや判断の基準、つまり、その人自身が見えてくるようで、読んでいて楽しいのです。
そういう文章を書ける人たちに憧れて、自分でも書いてみたいと思いながらも、自分の生活を見渡すと、代わり映えのしない日常を送っていて、起きて、会社行って、帰ってきて文章を書いたり資格の勉強したりして、たまにはサボってダラダラゴロゴロして、の繰り返し。なんにもないじゃん、と思いながら、真っ白のブログの新規記事画面を眺めて呆然とする日が続いていて、なにかを変えたい焦燥感に駆られています。
そんなことをぼんやり感じているうちに、敬愛するはせおやさいさんのブログでこんな記事を読みました。
はせおやさいさんは、2016年、毎日日記を書いている中でこんな経験をされたそうです。
それは不思議な感覚で、たとえが難しいのだけれど、自分の中に「書くための回路」が通ったような感覚が発生する瞬間が、確かにある。そしてその「書くための回路」が開通すると、目の前にある何気ないこと、身の回りに起きるささやかな出来事をちゃんとキャッチして、言葉へ変換できるようになる。見えているものの解像度が上がり、視界がクリアになったような気がして、同じように見えてこんなに違う、こんなことやあんなことがあったのに、今までのわたしは見落としていたのだな、という状態になる。
これを読んで、もしかしたら日々をつまらなくしているのは自分なのかも、と思いました。ほんとうは楽しいことも嬉しいこともちょっとした発見も、日常の中にたくさんきらきらしたものが転がっているのに、それを見逃してしまっていたり、見つけても忘れてしまっていたのかも、と。
見落としていたものを注意深く拾いあげるようなことを、していきたいなぁ、と思ったのでした。
そして、実は日記的なブログを書いてみたくなっているのには、もう一つ理由があって。
最近読んだ同性婚に関する本の中で「同性愛者に対して抱くイメージが性的なものになりがちなのは、異性愛者が同性愛者のライフスタイルをイメージしにくいからだ」ということが書いてありました。これを読んで、そうか!と少し目の前が開けたような気持ちになりました。
わたしも自分が両性愛者だと気づいてからしばらくの間なんとなく不安だったのは、同性パートナーを持つ人がどうやって暮らしているのかわからなかったからだったなぁと。同性に恋をして、付き合って、デートして、それから?それから、どうなるの?って。
実際に暮らしてみれば、なんということはなく、ただ普通に、二人で、起きてご飯食べて仕事に行って、夜はおしゃべりしたり映画を見たり舞台に行ったりして、お風呂はいって寝て、そうしているうちに年を重ねていくっていうことをしているだけでなんにも特別なことはないんです。でも、性的なイメージに引きずられて、そういう普通の生活してるふたりが見えにくくなっているのかもしれないなぁ、と思いました。
だから、わたしのふつうの日常を書き留めることにも、もしかしたら意味があるのかも、なんて思ったりもして。
とはいえ、はんたいに、わたしの日常なんぞに誰が関心があるのかしら、と思う気持ちも結構強くあるので、毎日とはいかないかもしれませんけれど、少しだけ、日記的なブログを増やしてみようかなと思います。
と、いうことで本日の日記を。
最近は彼女と二人で資格を取るための勉強をしています。なので、今朝は二人で早起きしてカフェ勉強でもしようかと言っていたのです。でも全然起きられませんでした。なぜなら昨夜、遅くまでかかって極上文學ドグラ・マグラのDVDを見てしまったからです。
今朝ツイッターでばばーっとまとめた感想はこんな感じでした。
昨日極上文學ドグラ・マグラを見ました。やっぱり極上文學はお耽美な世界観でいいなぁ。植ちゃん、狂人役がハマりすぎてて、胎児役もすごくて、凄い役者さんだなぁと呆然とした。最後の最後のシーンのぱたんって本を閉じる時の怖い笑みが忘れられない!
— スイ (@SUI_meganezuki) 2017年2月18日
松本寛也さんは白スーツがすごくお似合いでした。一見親切でただしい、まっとうな人に見えるのに頭おかしい感じのことを普通にさらっと言う、狂気を内に秘めてる感じがいい。ビジュアルも良かったなぁ。あのもしゃもしゃ髪が目の当たりまでかかってる髪型。目を伏せるとまた美しくて。
— スイ (@SUI_meganezuki) 2017年2月18日
対して同じ若林先生役のKimeruさんはぜんぜん違うアプローチでびっくり。偏屈な研究者然とした若林先生で、目つきは鋭いし少し前屈みだし、オールバック眼鏡だし、で鋭い印象。寛也さんと比べて、なんというか、最初からうさんくさいし、最初から狂気を感じさせる。
— スイ (@SUI_meganezuki) 2017年2月18日
あと桑野くんのモヨ子役が可愛すぎてめちゃくちゃびっくりした。桑野くんといえばインフェルノと忍ミュの印象しかなくて、雄々しい役のイメージだったから、あんなに女装が似合うと思わなかった。多分目つきと仕草とぷっくりほっぺのせいだと思う…。仕草は本当に少女然としていた。
— スイ (@SUI_meganezuki) 2017年2月18日
あとブラザートムさんの才能にもびっくり。さすがのベテラン。キチガイ地獄外道祭文と遺書のくだりがさいこうだったし、普通にしてるときも目つきの演技がまた…凄味があって…頭おかしい感も…。
— スイ (@SUI_meganezuki) 2017年2月18日
極上文學ってやっぱり演出が好きだわぁ。キチガイ地獄外道祭文の「これだ!」感。普通に原作文章を読んだだけじゃぜんっぜん想像もつかないような仕上がりだったのに、でも「これだ!これしかない!」ってなる感じが凄い。あとは後半の胎児の歌で垂れ幕を割って赤い花びらが噴き出して、
— スイ (@SUI_meganezuki) 2017年2月18日
その後胎児が割れ目から顔を覗かせるところとか…。女性器のイメージなんだろうけれども生々しさとお耽美さのバランスが素晴らしい。赤い花に埋もれて眠っていた胎児が起き上がるところも美しかった。
— スイ (@SUI_meganezuki) 2017年2月18日
午後からは舞台のお友達とランチをしながらおしゃべりをしました。ずーっと舞台の話。楽しかった。ある作品について「自分が傷つくような舞台は敢えてみなくてもいいかなと思ってチケットを取らなかった」という話をされていて、人生の大先輩であるその方の処世術というか、自分のコントロールの仕方をちゃんと知っているという感じに、心打たれました。いいなぁ…。そんなふうにわたしもなれたら。まだまだわたしは自分から傷つきに行ったりしてしまいます。
ランチの後は彼女と待ち合わせをしてマグカップを買いに行ったのですけれど、結局気に入ったものが見つからなくって、文房具ばかり見てしまいました。好きな俳優さんに初めてお手紙を書いてからというもの、万年筆や便箋や封筒が目について、書いたくなってしまって困っています。そんなにたくさんお手紙書かないでしょう、我慢我慢、と思って今日はなにも書いませんでした。
でも、お手紙を書くことは、相手のことを一生懸命考える時間でもあるし、その人に伝えたいことを考えることは、翻ってそういう伝えたいことを持っている今の自分を考えることにも繋がるんですよね。だから、誰かにお手紙を書くために時間を作ることってなんだかすごく大切な時間のような気がします。スマホを買ってネットに繋がりやすくなってから、そして、仕事を始めてから、ゆっくりと自分や人のことを考える時間が減っているような気がしているので、こういう自分自身の心のための時間も大事だなぁと。そういうことに気づいてから、時々「ああ、お手紙書きたいなぁ」という衝動に駆られます。
今日は以上です。ではまた!