七転び八起き

ハロプロと、恋人のキツネさんとの同性同士の同棲生活。

わたしがCLIEの舞台を観に行かないと決めた理由

わたしは、湯澤幸一郎氏が作・演出・主演をつとめる「メゾン・マグダレーナ」が舞台制作会社CLIEで制作されることに対して、 非常に残念に思っています。たとえ推しが出ていたとしても、絶対に観に行きません。過去のブログを見ていただければいかにわたしがこれまでCLIE作品に楽しませていただき、推しや好きな俳優さんがCLIEさんと多くのお仕事をしてきたかがわかると思います。それでも、行かないことを決めた理由について話したいと思います。

 

理由は三つあります。

  1. 性犯罪を軽く考えて欲しくないから(性犯罪を犯した人を同じポジションで起用することの意味を捉え直してほしい)
  2. ただ率直に、嫌悪感を感じるから
  3. 好きなものを嫌いになりたくないから

この中では1が一番大きな理由なんですが、順に説明していきます。

 

その前に、もし湯澤氏の起こした事件のあらましをご存じない方はこちらをどうぞ。なかなかに胸糞悪い淫行事件だったことがわかると思います。

 

そしてCLIEのプロデューサーであり社長でもある吉井さんが、メゾン・マグダレーナに関する問い合わせに答えた声明はこちら。

 

それではわたしがCLIE舞台を観に行かないと決めた理由をお伝えしていきます。

 

理由1 性犯罪を軽く考えてほしくない

社長であり本作のプロデューサーである吉井さんが声明を発表しましたが、読んで徒労感に襲われました。ぜんぜん、わかってない。性犯罪を犯した人を同じ作品の同じポジションで起用するということがどれだけの影響を及ぼす可能性があるのか。このご時世、そのことがどれだけ重く捉えられるのか。
おそらく吉井さんは、「性犯罪者が社会復帰すること」 に対してわれわれカスタマーが怒っていると勘違いしてるんですよね。 そう思っているから、「罪を償った人の社会復帰を支えることも、今社会の担うべき役割の一つだと考えています」なんて書けるのだと思います。

でも、それは違うのだと言いたい。
ツイッターの意見を見ていても、わたし個人の意見としても、『性犯罪を犯した湯澤幸一郎氏を、同じ舞台作品の同じポジションで復帰させる。しかもそのテーマは男女間の性愛』ということが問題で、そこに多くの人が怒っているし、気持ち悪いし観たくないと思っているんだと思います。後半の「しかもそのテーマは男女間の性愛」というところについては二つめの理由のところで語ります。まずは前半について。

『性犯罪を犯した湯澤幸一郎氏を、同じ舞台作品の同じポジションで復帰させる』ということをやることは、演劇業界全体やそこで働く女性たちのためにならないとわたしは思っています。彼の再起支援を考えるより、まずは業界全体やそこで働く人への影響を考えていただきたい。

『性犯罪を犯した湯澤幸一郎氏を、同じ舞台作品の同じポジションで復帰させる』ことが行われた場合、具体的にどういうことが起こりそうかを考えてみましょう。

もともと「マグダラなマリア」シリーズには多くのファンがついています。わたしも過去はその一人でした。
認めたくありませんが湯澤氏は舞台を作り上げる能力も、観客の心を動かす脚本を書く力も、役者としての能力も高いです。
そして、キャストさんも売り出し中の方から実力派の中堅・ベテランまでなかなかのいい人を揃えています。演劇は脚本・演出だけでなく、キャストの力でも人を呼べます。これまでの傾向を見ると、おそらく今回も多くのファンを持つ俳優さんたちが起用され、そのファンの中には内容や湯澤氏の過去に関係なく本作品を観に来るという人もいるでしょう。
つまり、公演をやればきっと成功し、もてはやされる。わたしたちが懸命に働いて稼いだお金がCLIEにも湯澤氏の懐に入る。
そうして、数年後には彼の罪などなかったかのような状態になってしまうでしょう。
Wikipediaには彼の犯罪歴が記され、ファンの間でも語られますが、それでも彼は何事もなかったかのように仕事をし、生きていける。犯罪を犯した人がまた立ち直って生きていける社会。それは一面ではよいものに見えます。ですが、周囲への影響はそれだけにとどまりません。

『性犯罪を犯した湯澤幸一郎氏を、同じ舞台作品の同じポジションで復帰させた、その結果、公演が成功し、湯澤氏がこれまで通り脚本・演出・役者という仕事を続けられた。しかも、多くの人がその事件を記憶している間に。』という事実が発するメッセージはこうです。


『性犯罪は、たいしたことのない罪だ』


たとえCLIEが「そういうつもりじゃなかった」と言っても、隠されたメッセージは伝わってしまう。湯澤氏が更生し、同じような犯罪を今後犯さなかったとしても、それでよいわけではないのです。

「隠されたメッセージが伝わってしまう」ということについてわかりにくいかもしれないのでさらに具体的に考えてみます。

まず、被害者の女性や、過去に同様の被害を被ったことのある女性はこの事実をどう受け止めるでしょうか。加害者の湯澤氏が何年か刑務所に入ったとしても、その後それまでと同じように仕事をしている姿を見たら、傷つき、悲しみ、絶望するのではないでしょうか。
湯澤氏以外の演出家や制作会社のキャスティング権限を持った人はどうでしょうか。女性の役者さんに対してキャスティングすることを条件に関係を迫るようなことは、きっとなくならないでしょう。だって、バレなきゃいい。バレたって、湯澤さんのように、罪を償ったら同じポジションに戻れる。意識的にか無意識的にかは別として、そう思ってしまう人が出てこないとも限りません。少なくとも「性犯罪を抑制する」方向にはなんの影響ももたらさないと思います。
若い演劇業界で働きたい女性の中で「偉い人と寝れば仕事をもらえる」と思い、自ら体を差し出してしまう人も出てくるかもしれません。でも、自らそうしたところで役を得られるかどうかはわからない。傷つくだけかもしれない。そうしない女性の中にだって「女性は実力では評価されない」という思いを持つ人が出てくるでしょう。男性俳優の中にだって、不公平感を持ち、「女はいいよな」などと心ないことを言う人も出てくるかもしれません。
そういう社会的影響を、吉井さん、そしてCLIEはしっかり認識した方がいいと思います。

演劇業界ではその縛りが緩くても、多くの一般企業では「セクハラ 」事件を起こした人は懲戒処分を受け、大抵の場合は元のポジションに戻れません。それは「セクハラ」が「たいしたことのない罪」 と受け取られないようにするためです。女性が性的なことがらで嫌な思いをし、それによって活躍が妨げられることを防ぐためです。 今回の事件は「職場で、自分の持つ権力を背景に女性に性的な行為を強いた。そして、その対象が未成年であった」というものです 。「対象が未成年であった」ことはとても大きなことで、それがあったからこそ逮捕され実刑を受けたわけですが、前半の部分だけでも一般社会における「セクハラ」と同等の意味を持つことで、 許されないことです。
そういうことを、吉井さんはご存じないのでしょうか?知らなかったのだとしたらこれを機に認識を改めてほしい。「演劇業界は特殊 な業界だから」なんて言い訳は通用しません。個人的な意見として 「彼は深く反省している」「再犯の可能性はない」と判断し、これまでと同じポジションで復帰させようとした吉井氏は、本当に認識が甘いと思います。
(吉井さんがプロデューサーであり社長でもあったからこんなことがまかり通ってしまったのだろうと思います。普通の会社だったら、だれかが止めてると思うんですよね…。特にあの、 ツイキャスでの発表前後のTwitterでの「復活」の演出とか。)

過去、幼い子供への性的虐待は「いたずら」と呼ばれ、セクハラは「職場のコミュニケーションの一環」と言われ、痴漢やレイプは「男の性欲はコントロールできないものなのだから仕方ない」と正当化されてきました。
つまり、男性の「罪」が矮小化され、女性は性的な面で嫌な経験をしても我慢しなければならないと思い込まされてきたのです。
そういうものを過去の戦う女性たちがひとつひとつ「おかしい」 と声を上げ、「セクハラ」「DV」「性暴力」という言葉を作り、 周知し、それは犯罪であり人権侵害であるということを社会に知らしめてきました。そうしてやっと、女性は嫌なことを我慢しなくて済むようになってきたのです。
わたしは、この流れを止めたくない。あらゆる業界で、あらゆる場面で、女性が性的に搾取されるようなことをなくしたい。傷つく女性が一人でもいてほしくない。
自分自身が女性だから同じ女性が傷つくのが嫌だと思うということもありますし、わたしが大好きなアイドルや女優さんや演劇業界に関わる全ての女性が、生き生きと自分のやりたいことをやって、実力を評価されて、仕事ができるようになってほしいという気持ちもあります。

だからこそ、そういうことに無頓着で無自覚なCLIEさんの姿勢にノーを突きつけたい。だからこそ、今後もCLIEさんの舞台には行きたくないのです。

 

2.ただ率直に嫌悪感を感じるから

理性で考えた小難しい話を延々としてきましたが、それと同じくらい単なる嫌悪感が強くて観に行きたくないということもあります。前の章でこれは後から、と書いた『性犯罪を犯した湯澤幸一郎氏を、同じ舞台作品の同じポジションで復帰させる。しかもそのテーマは男女間の性愛』の後半部分の話ですね。

マグダラなマリアは娼館が舞台の作品です。その中でさまざまな愛憎や性のあり方が語られます。タイトルが多少変わったとはいえマリア・マグダレーナを主役に据えるならば設定の部分は引き継ぐつもりでしょう。つまり、これまでのマグダラなマリアシリーズと同じように男女間の性愛がテーマとなるはず。演出・脚本をやるなら、彼の男女観や恋愛観が反映されないはずはありません。いくら『創作』であるといっても。それがわたしは、単純に気持ち悪い。性犯罪を犯した人の語る恋愛話を、観たいと思いますか?どうしても、作った人の起こした事件や性癖を想起してしまいはしないでしょうか?それはつまり観劇の最中ずっと、不愉快であるということなのです。観客が不愉快になるようなものを、嬉々として提供するのって制作会社としてどうなんでしょうか?そういう想像もなく、公演をやろうと決められてしまうCLIEさん(プロデューサーである吉井さん)の感性に対しても嫌悪感を感じます。

 

3.好きだったものを嫌いになりたくない

実はわたし、湯澤氏が逮捕された時の代替公演を観に行っていたんです。
キャストに当時好きだったD-BOYSの三津谷さんがでていたから。
二週間前に中止と代替公演が発表されて、津田さんが脚本も演出も主演もすることになって、キャストさんもスタッフさんも制作会社さんも、本当に大変だったと思います。
そして、その前後の期間でシリーズのDVDを集めて鑑賞もしました。推しだった藤原さんが出ていたから。しかも、マグダラなマリアシリーズでの彼の役どころは、彼の出演作の中でもかなり好きでした。
マグダラは作品だけで言うならば好きな作品でした。歌も曲もレベルも高いし、ストーリーも面白いし、キャラクターも魅力的で。なので最近まで「湯澤さんは嫌いだけど作品自体はよかった」と言っていたし人にも作品をすすめたこともありました。
今回の件がなければ、そのままのスタンスでいられました。
好きだったCLIE作品である弥次喜多シリーズに湯澤さんが出る と決まったときも、弥次喜多シリーズから心が離れかけていたこともありましたが、湯澤さんの出ている作品にお金を落とすのが嫌だったこともあり、結局行きませんでした。でも、湯澤さんもなにかしらの手段で生きていかなければならないし、キャストとして求められて彼が舞台作品に出演することは仕方ないだろうと思っていました。起用したCLIEを批判しようと思うこともありませんでした。単にわたしが嫌だから観に行かない、というだけのことだと。
でも、今回の件でCLIEさんがこんな風に性犯罪を犯した人を起用することへの意識が希薄で、誰もそれを社内で止めなかったとわかってしまったので、とてもがっかりしてしまいました。そして、『好き』という気持ちを利用されたようにも感じてしまいました。人気があるから、この作品を好きな人が多いから、湯澤氏を起用して多少問題になったって客が入るだろうと思ったから箱をおさえて公演をやることを決めたんですよね。営利企業なのですから、収益が上がる見通しがなければ公演を打ったりしませんよね。万一湯澤氏の起用に反感を持つ人が多くなったとしても、人気の若手俳優をキャスティングしておけばそれなりに集客できると思ってるんでしょう、きっと。馬鹿にしてますよね、観客を。……そんなふうに、どうしても思ってしまいます。

作品についても同じです。マグダラの過去作の中で、ロージーがマッチを灯してスカートをたくし上げるシーンがあります。もともと、あまり好きなシーンではなかったですが、もう二度と見たくないです。普通に楽しんで見ていたキャラクターの恋愛模様も、その背景にある湯澤氏の思想や犯した罪のことを考えながら見てしまうでしょう。きっと今作を見にいっても、手放しで楽しめることはないでしょう。

好きだったものを嫌いになってしまうのって、悲しい。本当に悲しい。せめて今回のことがなければもしかしたらいい思い出として過去作を見たときの感情はガラスケースの中に入れて取っておけたかもしれないのに。そんな風にどうしても恨む気持ちになってしまう、ファンがいることを吉井さんにはわかってほしいし、真剣に捉えてほしいです。

 

これが、わたしがCLIEの舞台をもう見に行かないと決めた理由です。

この世から全ての性差別や性的なことで嫌な思いをする女性が減りますように。そう願っています。
そのために、今回の公演にははっきりとノーと言います。絶対に観に行きません。

吉井さん、まずはこの本とセクハラについて書かれた厚生労働省のホームページでも読みましょう。

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

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