七転び八起き

ハロプロと、恋人のキツネさんとの同性同士の同棲生活。

他人のジャッジなどいらない。自分が自分のことを好きでいられたらそれで。

突然ですがここ数年変な柄のシャツ買うのにハマっているのです。惚気シャツと言われましたがキツネ柄のシャツとか。なんか茶色でやたらギラギラしてるシャツとか。

 

ハチミツとクローバーで、藤原デザインの山崎君が顔が塩であるが故にあらゆる変なシャツを着こなしてしまうというネタがあったけれど、多分それに近い感じで、私も顔が薄めなのと、背だけは高いので、変なシャツ結構着られちゃうんですよね。(そういえば最近三月のライオンに藤原デザインの人たちが出てきてちょっとうれしかったです。)

ハチミツとクローバー 1

ハチミツとクローバー 1

 

 

つい先日も、あるゲームの推しキャラがダルメシアンモチーフの服を着ていたりするのでどうにも白黒の柄シャツなどが目についてしまい、「概念ぽい」などと言いながら派手な柄シャツをいくつか買いました。

 

でもこんなふうに変な服を自ら選んで着たり、化粧をいろいろ試したりするのに抵抗がなくなったのって、本当にここ数年。 それまでは無地で無難な服を選びがちだったし、お化粧に罪悪感があった。私なんかがきれいにしようとしてもどうせぶすなんだから無駄でしょって思っていた。

 

どうしてそんなふうに思うようになってしまったんだろう。

 

思い返してみれば、いろいろきっかけはあった。小学校低学年くらいまでは美醜なんて意識したことがなかった気がするけど、人から直接言われた記憶はないのに、徐々に周囲との比較の中で、そっか私は可愛くはないんだって気づいていった。

  • 何かの機会に前髪あげるのってどうかなって聞いてみたら、母に「前髪あげていいのは美人だけ」と言われて、そっか私は美人じゃないってことね、というのを言外に感じ取った。
  • 同い年の、一緒にバイトしてた子だけが結婚式場のPR写真に選ばれた。フォローするように、同じバイトのおばちゃんから、スタイルいいよねって言われた。そうね。「スタイルは」いいかもね。
  • 会社で上司に眼鏡外してみてよ!と言われて外した時、あっ🤭という顔をされた上に黙られた。そうでしょうね。だから外したくなかったんですよ。眼鏡外したら美人なんて漫画の中だけですからね。(そういえばこういうの、小学生くらいの頃から何度かあったな)

 

多分覚えていないいろんなきっかけが他にもあったんだろうな。そんなわけで、順調にこじらせていき、着々と自分自身を抑圧していったのでした。

 

でも、じゃあ学生の頃もっとお洒落を楽しんでいたらよかったと思うかというとそうでもないのよね。気持ちはもう少し明るくなったかもしれないけど。そういうことに時間を使うよりも本を読んでいたかった。あの時期にのめりこめて、よかったと思っている。

 

その後今のパートナーと出会って、なんとなくうまいこと服装改造をされ(こっちの方が似合うと思うよって誘導されていった)、可愛いと常に褒められ(惚気すみません)、人と会いまくる職種なので毎日化粧をしていたら自然とうまくなり、やっとこさ自分が服や化粧や髪を工夫することを自分に許せたのでした。

 

 

少し前まで、舞台やコンサートで推しと目が合うかもしれないしそういう時に恥ずかしくないように化粧とか服をちゃんとしようって思っていた。だから舞台やコンサートなくなったら、着飾らなくなるかなーとか思っていた。でもそうやってたら、なんか楽しくなってきちゃって、今では「別に近所にしか出かけないけどぎらぎらに化粧したいからしよう」とか「髪赤っぽくしてみたいからやろう」とか「変な服着たい」とかやれるようになった。

つまり、単純に、楽しいからやっている。化粧した自分とか、変なシャツ着てる自分が、嫌いじゃない。それでたまに褒められたりすると嬉しい。でも褒められ目的じゃないから、褒められなくてもやる。

そんなふうになれてよかったと思う。生きるのがずっと楽で楽しくなった。

最近ではなぜか、すっぴんの自分まで、「年取ったのにどんどん自分の顔好きになるな。前より美人になったのでは?」と思いながら風呂上りに鏡を見たりしている。

こんなBLはいやだ!2021(完全なる私見です)

どうもBL愛好家スイです!

 

各種漫画配信サイトのGW割引クーポンやら、DMM電子書籍7割引クーポンやらにまんまとのせられ、BL漫画を買いあさって結構いろいろ読んでいた。元々ストレス溜まるとBLを読みたくなるという性質なので、広告につられてちょこちょこと読んではいたものの、ここまでがっつりまとめてBLを読んだのは久しぶりだった。

 

とりあえずみんな「囀る鳥は羽ばたかない」シリーズを読もう。最高に面白く最高にえっちで最高にもどかしいBLだった。久しぶりにいいストーリーBLを読んだ。続きが気になる。

 

囀る鳥は羽ばたかない 1 (HertZ&CRAFT)

囀る鳥は羽ばたかない 1 (HertZ&CRAFT)

 

 

ストレスなく読めるBL増えましたよね

で、最近思うのは、「俺はゲイじゃない、お前だから好きになったんだ」とか、そういうモヤモヤする台詞のあるBL、だいぶ減ったな、ということ。あと、かわいくて女の子みたいなにゃんにゃんした受けと俺様富豪攻め様のカップリングも。

私はヤマシタトモコさん出てきたくらいから本格的に自分でBL漫画買って読むようになり始めたのだけれど、それより前に友人から借りた昔のBLは今考えると、そういうのがやっぱり多かった。だからハマらなかったのかな、と振り返って思う。

そのあたりのBL作品の変遷はこちらの書籍に詳しいのでよかったらどうぞ。

BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす

BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす

  • 作者:溝口 彰子
  • 発売日: 2018/12/21
  • メディア: Kindle版
 

でも最近は、カップリングも多様になってきたし、セーフセックスBLも増えてきたし、ホモフォビアもミソジニーもあんまり感じずに読めるのが多いのがいい。あちゃーはずれ引いちゃった!というのが少なくなってきた印象。

 

それでも、最近のBLを読んでいて「あ〜〜〜これはどうなの〜〜〜え〜〜〜」と思うことがいくつかあったのでまとめてみたい。ちなみに最近のBLの定義は、私の感覚なのですがいわゆる電子書籍でBLを読むのが普通になりアプリが乱立してきた頃合いくらいと思っていただけたら。

 

こんなBLはいやだ!その① 性的指向というべきところを趣味嗜好という

最近一番ガクっとしたのがこれ!
主人公カップルに対して「別に男が好きでも気にしないわよ」と家族が伝えるシーンで、「趣味嗜好は多様なんだし」というセリフがあった。


彼が同性を好きになるのは趣味嗜好じゃありませんから!!!!
やめたりできないものなので!!!!

 

そのセリフを発した人の言い振りだとわかっているのだと思うけど、言葉だけ間違っているのは本当にもったいない。読んだ瞬間に一瞬現実に引き戻されるから本当にやめてほしい。たとえ作者さんが間違って使ってしまったとしても、編集さんとか校閲の人とか、その作品を世に出す会社としてのチェックをしてあげてほしい。お願いだから。

 

こんなBLはいやだ!その② 安易に結婚する

最近私はとても結婚したい。

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だから、現実世界で結婚できないのにBL世界で安易にプロポーズして結婚してみんなに祝福されて……という流れをみるとモヤッとする。結婚的な意味合いで「パートナーシップしよう!」というのもモヤッとする。パートナーシップ制度はあったほうがいいけど結婚にはとても及ばない内容なので無駄にそのBLカプの行末が心配になってしまう。

わかっている。これは嫉妬でわがままなのかもしれない。そのBL世界では結婚できるのが常識なのかもしれない。

でも、だったらそういう世界なんだよ〜というのをどこかで匂わせてほしい。心の準備をするので。だから完全にフィクションの世界線で結婚できたり子供作ってたりするのは全然あり。(セクピスとか超好きですもん。)

BLはファンタジーだってわかって読んでいる。だからこそ浸りたい。「この作者さんは現実の同性婚やパートナーシップ制度のことをどのくらいわかって描いていらっしゃるんだろうか」なんて終わった後考えたくないんだ〜〜〜!!! ウエーン!!!

めんどくさくてごめんなさい。でも作者さん、ちょっとだけでいいから勉強してくれたらきっと表現のしかた変わると思うので……自分のこの世に生み出したカプが可愛くない作者なんていないはずなので……! 何卒よろしくおねがいします!

(もちろん学んだ上であえて現実世界にはないけど幸せにしたい一心で描かれているのだとしたら私の読み方が足りなかっただけなので本当に申し訳ない限り)

 

こんなBLはいやだ!その③ 避妊具つけない

もう三十代も半ばに近づこうとしている年代なので、このBLを若い子が手に取ったらとか、そういうことを考えてしまう。たのしけりゃいいってもんでもない。

だから、避妊具つける描写がいちいち入っているBLを読むと「おっ、ちゃんとしてるじゃん」と思うし、生セックスを望むようなキャラクターが出てきてしまうとヤメテ!!!と思う。セーフセックス大事。だって、私も中学生くらいから友人に貸し出されてBLを読み始めたけどそういう人多いと思う。でもそういう子らが受けちゃんが生でヤって気持ちよさそうにしてるのみたら自分もやってみたいって思っちゃうかもしれないじゃないですか……(心配)

同じ意味合いでごっくんもちょっと気になる。性病とか……心配じゃないですか……。

たとえばストーリー上どうしてもそういうおせっせが必要な時も、なくはないと思う。完全ファンタジー世界での妊娠ものとか。ヤクザもので無理やり……という描写が必要な時とか。

そういう時以外の、ふつうのらぶらぶBLの場合は、ちょっと画面の端に避妊具落ちてる描写を入れるだけでもいいからセーフセックスだよアピールを入れてほしいものです。

 

完全に私見で、ちょっとだけ同性カップルの片割れとしての視点も入った、「こんなBLはいやだ!2021」でした。みなさんの「こんなBLはいやだ!」も聞きたいな〜。

回復しようとしている

ここ1ヶ月ほど回復という言葉がよく頭に浮かぶ。

 

私は何ごとにものめり込みやすいたちで、しかも中途半端に器用なものだから、いくつものプロジェクトを同時に回したりもする。それをやっているときは楽しい。アドレナリンで頭が満たされるし、まあまあうまくいって褒められれば、承認欲求までもが満たされる。

 

でも、ある時ぱたっと力尽きる。

 

本当にそれがやりたかったことなのかもわからなくなってくる。実際今も、よくわからない。その時々の、楽しいと感じる気持ちはわかる。でもそれが本心からやりたかったことなのか、欲しかったものなのか、わからない。

ある程度の社会経験を積んできているので、別に心底やりたいことでなくても、やっているうちに楽しくなってやる気が出てくることがわかっている。ある程度の成果を出せればそれがやりたかったことだと勘違いすることもある。そうやって自分を騙しているから、好きも楽しいも、流動的で、作れるものだという感覚が染み付いている。

それは、少し前まではいいことだったはずなのに、なんとなく今は虚しい。そうやってガツガツと好きや楽しいの範囲を広げていかなきゃいけないのって、なんでだったっけ。

自分自身の本心が、私にはよくわからない。本当の好き、本当の楽しいって、何?

 

そんなふうに疲れきって急にエンジンが止まってしまったら、あたたかい布団にくるまって、やり過ごすしかない。

本当にこれは私の欲しいものだったっけ、なんて呆然とてのひらを見つめながら。ひとつひとつ、絶対になくてはならない宝物を、数えていく。

 

パートナーのキツネさんは好きだ。大好きだ。他に別のものがいらなくなるくらい、愛している。

飼い猫たちもとても大切で、目に入れても痛くないくらいに可愛い。

あゆみちゃんを尊敬していて、彼女が出ているコンサートのDVDを見飽きないということも変わらない。卒業するまでは絶対に、見届けたい。ちょっと今は、情報全てを追い切れるような余裕はないのだけれど。

本を読んだり何か書いたりすることは、好きかどうか、少し疑わしい。執着しているという言葉の方がしっくりくるかもしれない。それでも本当に小さい頃からやってきたことだから、近くに本があると、たとえ読みきれなくても、なんとなく安心する。

 

そうやって最低限の必要で好きで大事なものを握りしめて、そのほかのものは全部全部後回しにして。一日に一個でもいいから、最低限以外のやった方がいいものがこなせたら自分を褒めて、甘やかす。

 

ああ、また少し、整理しなきゃいけない時期なのかもなあ。

それでまた、広げて、疲れて、整理して、そんなことを繰り返して生きていくのかな。

早く自分が投票できる選挙が来てほしい

私、結構今回の緊急事態宣言の出し方や、都の対応に怒っている。
いや、もっと言えば。コロナ禍が始まって以来、ずっと怒っている。
早く自分が関われる国政と都政に関わる選挙が来ないかと今か今かと待っている。

 

(まあ元々怒っていましたけどね。いつまでも同性婚も夫婦別姓も実現させてくれないので。)

最近特に怒っている理由は、文化を殺しに来ているっていうのが一番。
「社会生活の維持に不必要なイベントは禁止」「書店や図書館、映画館も閉めろ」っていうのが、もう本当に無理。

 

ずっと好きで、でも最近は離れてしまっていた舞台業界の方、ずっと引き続きハマっているアイドル関係の方、昔からずっと心の支えだった本や映画関連の業界の方。そして自分で本作るようになってようやくわかるようになった、同人イベント関連の様々な会社。
コロナ禍以降、もちろん当然、売り上げは減るけど、なんとか生き延びて欲しいと願ってきた。フルに補償も使って欲しかったし、表現することをやめてほしくなかった。
生命の維持に必要な、衣食住に関すること以外のところで、救われてきたから。
精神的な意味での、毎日の生きる糧が、こういう「文化」だった。

 

そういう日々の糧を与えてくれていた業界が、スケープゴートにされているように感じてしまう。想定よりコロナ禍はずっと長くて、こういうことが何度か続いたら、今は大丈夫でも、何度か目には本当に駄目になってしまうかもしれないのに。見えていないところで、コロナ禍で仕事が激減して、業界を去ってしまった人も、きっとこういうことがあるたびに増えていくのだろうと感じる。

 

もちろん、保菌者が行き交う中で、感染を広げてしまう可能性は確かにあるんだろう。だから……と思ってなんとか納得しようと思ってはみたが無理だった。じゃああの鬼滅ブームの時とかシン・エヴァの時の映画館は規制しなくてよかったのか?とか。書店でクラスタが出たなんて聞いたことないんだが?むしろ家にいるために必要な資源だしそもそも書店なんてただでさえ売り上げ厳しいのに、とか。ぜんぜん、合理的に考えて納得できる理由がみつからない。補償だって、十分であるようにはとても思えない。
特に、金曜日に発令して明日のイベントから即刻中止、確認したくても都庁は土日だから連絡つかないってのは本当にひどいと思った。参加者もスタッフも前乗りで移動しちゃってたりもして、地方の小さい同人誌印刷会社さんがもうトラック走らせてしまっている、そういう段階で中止。これでどれだけの赤を各社が引くことになるんだろうか。想像するだけでしんどい。

 

正解は、たぶんないんだと思う。
日本は世界の各国に比べて死者数が少ないし。そこに注目する人もいるだろう。一方で、自殺者が増えている。失業者も。経済への打撃も他国と比べてひどい。どこから見るかで、意見は変わる。
でも、自分の頭で考えて、これはヘンだ、おかしいって感じたら、一番最初にできることが、選挙に行くことなんだと思う。
私は、自分の信念にしたがって、選挙に行く。

 

あんま選挙いったことないし誰に入れたらいいかわからんっていう人は、トピックを限定して見てみるとよいと思う。
同性婚に賛成している人かどうか。コロナ対策は納得できることを言っている人かどうか。一つの視点でみると、わかりやすい。
人単位で見極めつかなければ、政党単位で見てみたらもっと数が絞れる。こういう政策を打ち出している政党から出ている人だから、あんまりどういう人かわからないけどとりあえず応援する、でも全然いい。
もっともっとずっと簡単なのは、「今の政治に違和感あるな」って思ったら、野党に投票する。ただこれだけ。


「他の人がこう言ってるから」では決めない方がいい。一番よくあるのは「みんな他にいい人いないから○○さんだよねって言ってる」とか「他にちゃんと政権運営できる党ないって家族が言ってたから自民党」みたいなのは自分の頭で考えているとは言えないと思う。「他にいい人(政党)いない」って、何をみて、どう言う理由でそう言っているのか、少なくとも聞いてみて欲しい。一歩突っ込んで聞いてみたら、その人も「○○さんがそう言ってたから」とか「だってそうじゃんニュース見てるとさ」みたいな感じでぼやかしてくることも少なくないと思う。それはその人も考えてない証拠なので、安易に意見を合わせてしまうのはやめましょう。

 

みんな、選挙は大事だぞ。自分一人いかなくたって、ってみんなが思ったら、もうその瞬間にずっとこの絶望が続くんだ。

 

カミングアウトしたLGBTsで実家の支援受けられている人ってどのくらいいるんだろう

ふとした瞬間に思うことがある。
もし私が異性愛者だったら、今も実家からお米とか野菜とか送ってもらっていたんだろうなって。
もしかしたら、結婚式にお金出してもらってちょっとプランを豪華にしたりもできたのかもなーとか、家を買う時に一部支援してもらうこともあったのかもな、とも思う。

 

実際にこれ、異性愛者である弟は、実家からやってもらっている。

 

でも私は、家を買うときも全て自己資金、今年中にウエディングドレス×二人で写真撮りたいねってパートナーとは話しているけど、それも全部自分たちでお金貯めてやらなければならない。

 

仕方ないんですけどね。カミングアウトした時に結婚式の話題出したら母に「絶対無理、私は呼ばなくていいから」って嫌悪感ばりばりの顔で首を横にふられたもんで。「相続権は放棄して」とも言われたもので。
それでも、好きな人と自由に生きることの方が私にとっては重要だったから。

 

そんなの自己責任でしょっていう人もいると思うし、そもそも親のいない家庭だってあるんだから恵まれている方だよっていう意見もあると思う。ごもっとも。金銭的な支援を受けられたら、多少なりとも生活が助かるかもしれないし、金銭的支援がなくても精神的な支援が受けられればもう少し生きるのが楽かもしれないと思うけど、べつになくても生きていける。

 

でも、私たちはまだ成人していて、二人とも稼げているからいいけど、そうでない人はどうなんだろう?
例えば学生で、親に支援をしてもらわないと学校に行けないし生活できないという人。
コロナ禍で職を失ったりメンタルを病んでしまったりして、パートナーも決して裕福じゃなくて、実家に頼らざるを得ない人。
そういう人は、自分を押し殺しながら生きるか、貧困街道まっしぐらでも自由を選び取るか、どちらかしかない。なんて切ないことなんだろう。

 

私自身も、大学生の頃は近い状態だった。
田舎の出身で、車がないと生活できない。だから学校に行くにもサークル活動をするにもアルバイトをするにも、どこに行くにも親に車を出してもらわないといけない。
だからいつも、親の機嫌をみながら生活していて、苦しかった。
親の期待に沿わないといけないけどそうできない、私の世話をしてくれる親に申し訳ないとよくスクールカウンセラーの前で泣いていた。

 

うちの親をみているとよく思うのだけど。
金銭的、精神的支援をしないと脅すことで、自分の子供を思い通りにしようとする人もいる。
私などはだいぶ強くなったし自立していたので、「そんなのはいらん。私は私が幸せでいられるように生きるんだ」と確固たる意思を持って距離を取れた。
だから「ちょっと不公平だよなあ」と愚痴を零す程度で済んでいる。
でも、思い通りになってしまうことで、精神を病んでしまって、結果うまく働けなくなったりして、泥沼から抜け出せないという人も、きっといる。

 

どうにかなることではない。人の心に、差別や偏見がある限りは。
でも、多少なりともどうにかなってほしいと思う。
世の中に、「うちの家族は全方位カミングアウトしているけど仲良しでーす!ハッピー!」な家族が増えて欲しいし、子供を自分の思い通りにしようとする親は減って欲しい。
せめて、血縁の人から金銭的、精神的支援を受けられなくて不利な状況に立たざるを得ない人が少しでも減るように、社会としてのセーフティネットが広がっていってほしい。

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体力・筋力は本当に大切(1ヶ月坊主本領発揮)

久しぶりにリングフィットをやったらワイドスクワット10回程度で息が上がった。以前ならこんなものではなかった、はず。残念ながら運動を諦めていた2ヶ月ほどの間に作ってきたはずの体力がガクッと落ちているようだ。

 

私はなんでも、やろうと思ったものはだいたい1ヶ月は続くのだ。でも1ヶ月を超えるとだんだん不安定になり、高度が落ちて低空飛行になり、いつのまにかやめてしまう。三日坊主ならぬ1ヶ月坊主。

やめてしまうきっかけは、実家の可愛がっていた猫が死んでしまったとか、そういう致し方ないものもあるんだけど、大抵は何日か忘れたり調子が悪かったりして記録が途切れ、その瞬間にやる気がガクンと落ちるのだ。

1ヶ月は、目標を覚えていられる、と言い換えてもいいかもしれない。身につけたい習慣がなんなくできるようになった頃、急にそれがつまらないものに思えてしまう。1日でも忘れると、もうその目標には魅力を感じなくなっているので、まあいっか、となり、いつのまにかやめてしまう。

 

慣れてきたころにすっごい褒められるとか、次の取り組むべき魅力的な目標が目の前に掲げられるとかすると、続けられるのかもしれない。でも、筋肉をつける、体力をつける、みたいななんてことない自分一人で目指す目標だと、なかなか難しい。

 

でもね、なんでこんな文章を書いているのかというと体力や筋力をつけることの大切さを身をもってわかっているから、やっぱり続けたいなと思っているからなんですよ。2ヶ月休憩したからそろそろ戻したい。

 

元々薄々気づいていて、コロナのせいでフルリモートになってから身にしみてわかってきたのは、体動かさないと精神にとってもよくないのよね、ということ。

 

私はもう中学生ごろから40代の母よりも肩が凝っていてマッサージに行くたびに肩の硬さを鉄板に喩えられるような人間なんだけど、首、肩、背中、腰までが固いとマジで病む。気分は暗くなり、何もする気力がなくなり、横たわってばかりいるようになる。頭痛も頻発する。死にたくなってくる。自分はダメだと思うようになる

リングフィット真面目にやってたころは、この体の痛みに起因するやる気低下がまだマシだったんだよな……。

 

そして体力・筋力が落ちると椅子に座って体を起こしているのが苦痛になってくるので、仕事が終わった瞬間横たわり出すようになる。横たわると体も精神も「やすむ」モードになるので夜の時間を何もせずにスマホばかり見て過ごすことになる。この状態で起き上がるのって一苦労なんですよね。それでいつの間にか寝る時間になっていて今日も何もできなかったと絶望するわけだ。いかん。精神によくない。

 

というわけで、リングフィット、せめて肩こりセット簡易版だけでも毎日やるということをここに宣言します。

差別に慣れるな。気づけ、戦え。

ここ1ヶ月くらい、「ああ、私はよくない状態に慣らされていたんだな」ということに気づくことがたびたびあった。比較的いつも社会に怒っていて戦っているはずの自分でもそうなのか、と驚いた。

 

例えば、同性婚訴訟。札幌で、「同性婚を認めないのは違憲」という初めての判決が出た。とても、嬉しかった。Twitterを見ていたらTLにいた仲間みんなが泣いていた。私も泣いた。こんなふうに、涙が出るとは思わなかった。

だって、違憲判決が出たからってすぐに結婚できるわけではない。他の地域の同性婚訴訟の結果がどうなるかもわからない。実際に法律になるには相当の時間がかかるだろう。あらゆる制度は「男と女」の夫婦と子供という家族を前提に作られている。一つ一つ変えていかなければならない。それだけでも時間がかかるだろうに、反対派する人もいる。しかも、国会の最大派閥が、反対している。そりゃあもう、時間がかかるだろう。

現実にそうわかっていても、思わず泣いてしまったのは、「あなたたちは間違っていない。間違っているのは制度の方だ」と、言ってもらった気がしたからだ。別に認めてくれなくていいし理解なんていらないから不利益を被る制度を改めてくれよってずっと思っていた。私たちの関係性は全ての人に受け入れられるものではないと、思い込んでしまっていた。でも、本当は、認めてほしかった。共感してほしかった。祝福されたかった。そんな気持ちを持っていたことに、ようやく気づいた。

 

 

もうひとつ、似た出来事があった。私は昨年の秋以来自分の住んでいる自治体にパートナーシップ制度を入れるための活動をしている。その過程で、こんな言葉を聞いた。

「婚姻制度は標準的な家族のためにある」

その発言をしたひとは、LGBTsへの理解を深め寄り添うことは必要だ、でも、という文脈でこれを言った。つまり、理解は示すけれど結婚に類する制度は必要ないのではないか、と。

うわあ、と思ったけれど私はその時、思ったより酷いことは言われなかったな、と思ったのだ。あまりLGBTsへの理解があるタイプの方ではないことを知っていたから、もっと酷いことを言われるかも、と身構えていた。だから、あの人でも理解は示さざるを得ないくらいに世の中が変わってきたのだなと感慨に耽りさえした。

でも、自宅に帰ってからじわじわと、酷いことを言われたんだって気づいて、悲しい気持ちになった。「標準」って、なんだ。その人も、言いにくそうに口ごもりながら言っていたけれど。つまり、私たちが傷つくかもとか、世の中的には言ってはいけないんだろうなと思っていたのだろう。それでも、そう言った。

自分は「標準」だって思っているんだろうな、無邪気に。自分の子供や大事な人が「標準」にはまれない人であるかもしれないのに。そうなった時にその人は、仕方ない、自助努力でなんとかしろって言うんだろうか。「標準」から外れる瞬間って意外とたくさんある。働けなくなるほどの大きな病気をしたとか、車にひかれたとか、思いがけず事故を起こしてしまって自分が加害者になってしまったとか、急に家族が介護状態になったとか、離婚することになってまだ幼い子供を一人で育てなければならなくなったとか。そうなった時に初めて「標準」でない人のつらさや苦労を知る。きっと、自分がマイノリティだと感じる瞬間が今までの人生でなかったんだろうな、あの人は。羨ましい。

 

でもここで言いたかったのはそれを言った人への恨み節ではなくて。全く私が無感覚になっていて、聞いた瞬間反応できなかったっていうことだ。まあそういうこと、言いますよねーはいはい。テンプレすぎて笑えるわ。べつに傷つかないし。まあでもエクスキューズつけながら言いにくそうに言うってことは形だけだとしても理解し始めているんだろうな、まあ許してやるわって。そんな感じだった。実際その瞬間心の動きはすっごく鈍くて。悲しいもつらいも、全く感じなかった。

 

感情的になることが、すべていいこととは思わない。戦略的に黙ったり許したりすることは、ある。でも、慣れてしまうことは、怖いことだと思う。慣れて、仕方ないことだから自衛しよう、自分たちのできる範囲で対策して、まあ幸せで、声上げなくても行動しなくてもそんなに不自由しないからいっか、って思ってしまうのが怖い。そうやって足を止めてしまったら、他の大勢の動けないほど傷ついている人や、次の世代の人が、困る。戦える人が戦った方がいい。でも、戦うために感情を鈍麻させたら元も子もない。いつか、そんなのいちいち傷ついてたらキリないよって、今まさに辛い人に言ってしまいそうで怖い。

 

すべての感情を、大事にしたい。差別に慣らされて諦めてしまわないように、気をつけたい。戦うために。そして傷ついた誰かに優しくするために。

同性でも、結婚したい。

最近もう、ものすごく、結婚したい。
パートナーはいる。長年付き合っている大切なひとが。
家もある。かわいい猫ちゃんたちと一緒に暮らしてもいる。
ただ、結婚という制度だけがない。

 

自分がここまで結婚したいと思うと思わなかった。今までは「結婚」という制度に苦しめられてきているという思いが強かったから。5年前の記事はこちら。(ところで5年もブログやってるんですね、今気づいてびっくりした。最近ブログリニューアルしたくて仕方ないのだけどこうして思考の軌跡を辿れるのはいいな。)

www.nanakorobiyaoki-sui.com

 

おそらく「私も歳を取った」ということなんだと思う。そして、知識が増えた。
5年前はまだまだ若かった。家も買っていなかったし、猫とも暮らしていなかった。実家へのカミングアウトもしていなかった。
けれど三十代になってそういったライフイベントを通り過ぎて、「その後のこと」をよく考えるようになった。

 

パートナーのキツネさんとは歳の差がある。彼女はもう何年かすると四十代になる。
私だってそう遠くない未来にそうなる。
いままでは、若くて健康だったからいい。
でも、今、どちらかが倒れたら。病気になったら。突然意識がなくなったら。
私たちは互いの病状をお医者さんから聞くことができないかもしれない。死目に会えないかもしれない。
そういう危機感が、本当に身近なものとして感じられるようになってきた。

 

今までは、なんとなくそういうこともあるかもしれないけど、とどこかで他人事だった。それが一気に自分ごとに感じられるようになったのはこのニュースだ。

 

www.huffingtonpost.jp

 

同性婚裁判の原告だった方が倒れたとき、パートナーさんは病状の説明を医師から拒否された。HIV診療の拠点病院ですら、そうなのだ。


医師である私の友人に聞いた時、事前の意思表示が重要だし、実家の家族にカミングアウトしておいていざというときに家族づてに情報を共有してもらえるように準備しておいた方がいいよね、と言っていた。医師としては誰がキーパーソンなのかを把握しておく必要があるだけで、それが法律上の配偶者である必要はないんじゃないかなあ、と。


でも、こういうニュースを見ていると、そんなものでは足りないと思わせられる。
自助努力の範囲でどれだけ準備したって、受け入れる相手の側に知識がなかったり、病院組織自体が保守的な方針だったりすると、それだけでもうどうにもならない。
かかりつけの医師にカミングアウトしておいたって、出先で倒れて運び込まれた病院に理解がない可能性だってある。


はずれがいっぱい入ったくじをひかされているようなものだ。
基本的には健康で、意識を急に失うような事故や急病にかからず、実家の家族にも恵まれ、理解ある医療機関を見つけて確かな合意形成をしながら、穏やかに死を迎えられる確率って、一体どれだけあるんだろう?
気が遠くなる。
異性愛者で法律婚をしていればいつだって正解が書かれたクジを引けるのに。

 

この手のことって本当にたくさんある。たとえば相続のこと。
私はカミングアウトした時に実家の親から「相続権を放棄しろ」と言われた女だが、自分自身はというとパートナーだけに相続できるかどうかわからない。
公正証書で遺言を作ったとしても、請求した場合は法定相続人である親などが一部を受け取ることができてしまう。

www.hinata-office.com

正直「相続権を放棄しろ」だの「一生懸命育てたのになんでそんなふうになっちゃったの」だの言われた親に私が稼いだ金もなんとかして買った家もびた一文渡したくない。親が死ぬまで絶対に死ねない。

 

けれどなぜ、こんな心配をしなくてはならないのだろう。わざわざ、安くないお金と、手間をかけて、遺言書やらパートナーシップ合意契約書やら死後事務委任契約書やら任意後見契約やら、いくつもの公正証書を作らなければならないのだ?
結婚できれば、たった一枚の結婚届を出せばそれで済むのに。
(ちなみにあまり詳しくない方に向けて書くと、パートナーシップ制度では相続関係はカバーされない。配偶者控除も利用できないし遺族年金ももらえないし、あらゆる法律に書かれている「配偶者」として扱われることはない。)

 

結婚が愛の証だと思う人もいるけれど私にとってはそうではない。
ふたりで、安心して生きていくために必要なものなんだよ。
「万一の時のこと」を常に考えながら生きていたくなんてない。
本当に「万が一」のことが起こってしまった時に悲しい想いをしたくない。
ただそれだけなんだ。

 

「結婚」の意味を深く考えずに済む人たちが妬ましい。
なんとなく恋愛して結婚して、中身を考えなくても多くの制度の恩恵を受けられる。
多くの場面で説明もなく家族として扱われる。
そんな人たちが羨ましい。
べつに、あなたたちの権利を奪うわけじゃない。
よく保守の人たちがいうように「家族の絆」を壊したいなんて全く思っていない。
だから、私たちに結婚できる権利をください。
ほんの少しでいいから結婚できないカップルにはどんな困りごとがあるのか知って、自分が同じ立場だったらどう感じるのか、一人一人が考えてほしい。

 

明日とうとう、同性婚訴訟の最初の判決が下る。どうか私たちにとって前向きな結論となるよう、願いたい。

mainichi.jp

 

 

石田亜佑美さん24歳のバースデーイベントに行ってきました。

バースデーイベントのお写真に「常に今が最高であれ」って書いてあるんですけど。それを毎年毎年、体現してくれる推しのことを尊敬しています。

 

今年も行ってきました石田亜佑美さんバースデーイベント。毎日東京では「過去最高」の感染者数が更新され続ける状況だったけれど、なんとか開催できてよかった。本当によかった……。行かない決断をされた方も、緊急事態宣言を受けて開催時間が変更になったことで来られなくなった方もいたと思う。私もこのブログを書きながら、大っぴらに行ったよって言っていいのかもわからなくて苦しい。でも、あゆみちゃんに会えてパフォーマンスが見られて、大袈裟ではなく明日からの生きる希望をもらえた。ほんとうにありがとう。

 

開始前のサプライズ

バースデーイベントは、定番になりつつある(?)一人芝居から始まり、そこからライブコーナーへと移る構成。司会がいなくて、公演の諸注意もあゆみちゃん自身が読み上げてくれたのが新鮮で、でも嬉しかった。

 

公演時間が短くなってしまったことで、開演前からあゆみちゃんが舞台上に出てきてくれていた。ストレッチをしたり、自撮りや踊ってみた動画撮影をしたり、ちょっと客席に話しかけてくれたりするあゆみちゃんを「え、これ見ていいの……?追加料金いらない……?」という気持ちで見ていた。にやついた顔がマスクで隠れていてよかった。一部で出てきてくれたときはそれでも確実に挙動不審だったと思う。動揺した。きもいおたくでごめんあゆみちゃん。なんで?と思っていたら「終わりの時間が決まってしまっているなら早く出ればいいじゃん」という気持ちで出てくれたということを言ってくれて、もう本当に……大好き……としょっぱなから胸がいっぱいになってしまった。どこまでファン思いなんだろうかこの人は。

 

news.yahoo.co.jp

 

その時の感想はこちら。パンツの衣装、最高だった。

 

一人芝居パート

そして始まった本編。本編の始まり方もまたよくて。あゆみちゃんの公演の注意(かわいい)が終わってから、始まりますよのMCもなく、いきなりジャズっぽい音楽と共に動画が流れ始める。わかりやすい英語で書かれた「ご来場ありがとうございます」「これから三つのオムニバスが始まるよ」的なものが流れる。お洒落か。

そこからあゆみちゃんが出てきて、役になるために舞台上で髪をたばね、メガネをかけ、ジャケットを着替え始め……わああってなりましたよね。そこからすでに演出!!!こういうの一人芝居の普通の演劇でありそう!!!!好き!!!!ていうかメガネ最高かよ!!!!という感情の嵐。

そこから始まる三つのオムニバス、中くらいの長さのもの、短いもの、長めのもの、という構成なのだけど、一番長かかった「孤独ゲーム」の中では、ナレーション的な役割の鴉役と、主人公の内面の声と、外側に見えている様子、この三つのキャラクターが全然違っていて。つまり、実際のところ三編で五役、みたいなもので。それを違和感なくこなし、しかもちゃんと全員、違う人に見える。本当に演技達者な子だな、と一昨年くらいまで舞台おたくだった私は思いました。

だって一般的な若手俳優でも、何やってもその子に見えちゃう子とか、「うんうんこれから頑張ろうね!光るものはある!」みたいなこれからに期待的な子って多いじゃないですか。でも、あゆみちゃんはもうすでに、女優。スペゼロあたりで一人芝居やってても、どこかの本格的な演劇集団のゲストに呼ばれたとしても、きっと遜色ないだろうなという感じがした。

推しの欲目も、あるかも。でも、去年の一人芝居みたいな比較的かわいらしい系統のものじゃなかったからこそ、それが感じられた。というか、さらにうまくなっていた、気がする。あー……やばい。そう思うと。LILIUM見て、その後TRIANGLEで全然違う系統の女の子やっている姿見て、その後男役見て、憑依型だなって思っていたけれど、まさしくそう。そこから一人芝居にバーイベで挑戦して、その後、たぶんソロフェスで演劇っぽい演出にしたのやって、その中でこのコロナ禍の中でも着実に、進化してきたってことでしょう。やっっば。

 

ライブパート

同じ感想はライブパートでも持った。毎年言っているけれど今年も歌がうまくなっているな!?と思った。きっとこの一年、歌に向き合う時間がすごく長かったと思う。ダンスが得意なあゆみちゃんが、舞台上ではダンスを封印しなければならなかった一年。でも、踊ってみた動画の投稿なんかでダンスパフォーマンス力をさらにさせつつ、そこに期待しているファンもつなぎとめつつ、さらに一人で一曲歌い上げる力を磨いてきた。その成果が出ていたんじゃないかと思った。ピッチも安定していたし、高音も綺麗に出ていたと思った。感情ものってた。うっうっ好き。

私はダンスであゆみちゃんを好きになったタイプなので、「もっと愛してほしいの」でバリバリに踊って歌っているかっこいいあゆみちゃんを見ながら苦しくて胸元を押さえざるをえませんでした。好き。

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推しは鏡

いつもバーイベで推しを見るたびに思う。自分自身はこの一年どうだっただろうか、少しでも進歩したことはあるだろうか、立ち止まっていなかっただろうか、って。それは冒頭に書いた「常に今が最高であれ」をあゆみちゃんがまさに体現しているから。毎年毎年、よくなっているところがあるし、毎年毎年、新しいチャレンジを感じる。私よりずっと年下な彼女のそういうところを、本当に尊敬している。あゆみちゃんが前を向いて歩いているから、私もそうできたら、って思う。

推しのどんなところに惹かれるかって、最初はパフォーマンスを見て沼にどぼんって落ちることが多いと思うけれど、長く推すほどに性格とかパフォーマンスに向かう姿とか性格なんかの方の比重が大きくなってきたりもするものなんじゃないか、そしてそれは自分の性格や志向と少なからずつながっているのではないかと思う。

飽き性な私があゆみちゃんのことを推し続けざるを得ないのは、私が努力を志向する人間で、たとえ昨年のように一時的に落ち込んでやる気がなくなったりしていても、根本的には前を向いていたい人間だからなんじゃないかな、きっと。だから推しを見て恥ずかしくなることもあるし、私ももっと頑張らなきゃって背中を押されることもある。

推しは自分を写す鏡。幸せと、自分自身と向き合う機会を毎年くれて、ありがとうあゆみちゃん。今年も推しに恥じない自分として生きていきたい。

 

最後に自慢

ところで最後に自慢させてください。一部も二部も相当前の方の席だった。前の席の人がいなかったので二部はほぼ最前といっても過言ではない。しかもドセン。目の前数メートルのところにあゆみちゃんがいた。なにも遮るものなくあゆみちゃんのダンス見られた。最高か。年始早々から幸先の良いスタートでした。もう今年の運は使い果たしたかもしれないけど本望です。

 

追記:

そういえば本文中に書き忘れたのですが、私はあゆみちゃんが「今ぜんぜん緊張してない」「楽しい!」って言ってくれたのがとても嬉しかった。それっておたくを信頼してくれているってことでしょ。そして、バーイベが新しい挑戦をする場みたいになっていることも、誇りに思う。それってもちろん、そういう場所を毎年用意してくれる事務所とスタッフさんのお力もあるけど、チャレンジしても受け止めてもらえるって思ってくれてるからなんだと思う。

推し活をゆるくやるようになったこと

今日は推しの誕生日です。石田亜佑美さん、どうか健やかに次の一年も過ごしてください。大好きです。明日のバースデーイベント、ほんとにほんとに楽しみにしています。開催できるかどうかも微妙な時期だったけれど、なんとか開催はできるようで本当に嬉しい。でもとにかく、自分の健康を大事にしてほしいから、もし万が一いきなり明日中止になったとしても私は潔く諦めます。

 

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……ということを書きながらのこのブログタイトル。決して飽きたとかそういう話ではない。もちろん。推しは相変わらず完璧で、ブログも東スポも滞ることなく更新し、グループとしての通常のルーティンができなくたってバラード曲がメインのコンサートを頑張り、インスタでは踊ってみた動画が話題になり、ダンス学園でも新たなことにチャレンジしている。最高に推しがいのある推しで、彼女を推していることをいつも誇りに思っている。

 

でも、ある時期から、だんだん動画コンテンツが見られなくなった。ここまで潤沢にあらゆるメディアでの発信をしてくれる事務所様と推しには本当に大感謝なのだけど、ハロステ含むYouTube動画をとにかく見られない。次第にブログなんかも、元々全チェックするタイプじゃなかったけれど、さらに見るのが時々になった。

 

理由は多分いろんなことが重なっている。

単純にコンテンツの量が多くて消化しきれないというのもある。そして、見ていて辛くなってしまうというのも。

いろんなコンテンツ見るたびに、なんでコンサートないんだろう、私は歌って踊って表現している推しが好きなのに、舞台だってほんとはやってほしいのにってどうしても思ってしまうから辛い。グループの単独コンサートってすごくいいよなって、あたりまえにできなくなった今、改めて思う。だって、ずーっと推しが出てるし、いろんな曲で踊ったり歌ったり、いろんな顔する推しがたった数時間の中でぎゅぎゅっと見られる。なんという幸せ空間だったんだろう。

プライベート的な理由もある。仕事の状況がしんどすぎて、逆に仕事とキャリアのことしか考えられなくなる時期があったりとか。「つらいな」という気持ちの隙間に、うまいこと別の沼(二次元)が入り込んできてしまって、ゲームと二次創作ばっかりやってたとか。当事者系の活動で忙しくなってしまったとか。猫が家に来たとか。

 

少し前まで、そうやってリアルタイムに追わなくなったことへの罪悪感がものすごくあった。SNSを見れば、ブログをリツイートしているおたく仲間や動画コンテンツを見てどうだったか、インスタ見てどうだったか、を語っている人が必ずいて。そこに乗れないことがつらかった。いわゆる「本当のファンなら」現象。あらゆるジャンルで本当に推してるんだったらなんちゃらするのがあたりまえ、みたいなことをいう人がいる。自分の中に、そういうこと言う人をひそかに飼っていたんだと思う。他人に対してはあんまりそういうこと思わないのにね。不思議。

 

 

でも、少しずつ「別に今の推し方でもいいじゃん」って思えるようになってきた。

 

一番のきっかけは、本当にいろんなリアルに疲れてしまって、単独コンサートのDVDを見返した時だったと思う。コンサートで肩で風を切って歩いてくるあゆみちゃんをみて、なんてかっこいい女なんだろう、わたしもこんな風になりたい、って思って元気が出たということがあった。

その時、私にとって「推し活」ってこれが最小限で全てなんだって思った。誰がなんと言おうと私はあゆみちゃんが好きで、圧倒的に好きって感じるこの瞬間がある限り「私は石田亜佑美ちゃんを推してます」って言ってもいいんじゃないかなって。

心の余裕がなくなったり別のことに時間を取られたりして、おたくが普通やるような行動ができなくなったとしても、推しは推しであることに変わりはないんだ、きっと。自分のできる範囲で、コロナへの恐怖心とか、収入の増減とか、時間的余裕とか、いろーんなものに折り合いをつけて推していけばいいし、逆に余裕のある時には全部見たりやったりすればいいじゃん。そう思った。

 

そんなわけで、これまでも「本当のファンなら」って他人には絶対に言わないようにしてきたけど、自分自身にもそんなこと言わないようにしようと思った。自分の好きっていうきもち、応援したいっていうきもちを大事にしながらひっそり世界の片隅で石田亜佑美さんを応援し続けたいと思います。